「いのちの大切さ」について子どもと話したことがありますか?
こんにちは。梅原なつめです。
夏休みの育児と家事に追われる毎日ですが、最近特に感じるのが「子は親の鏡」であるということです。
子どもって親の不安を敏感に感じとってしまうものだなとしみじみ・・・。
子育てで心配事がある時、仕事や家事が忙しくてあまり子どもに向き合ってあげられていない時、自分自身に悩んでいる事がある時・・・。
普段と変わらないように子どもに接しているつもりですが、心がささくれだって
いる時は不思議と子どもは反抗的になったり、寝る時に普段言わないようなこと
をボソッと言ったりします。
「ママがいなくなったらどうしよう!?」
「ママが死んじゃったらどうすればいいの?」
母の不安な感情を敏感に感じとって子ども自身も不安に感じてしまっているんですね。
子どもが身内の死を体験して
昨年の夏、仲良しだった祖母が亡くなりました。
私の中で母の次に母に近い存在だったのでとても悲しかったしショックな出来事でした。
うちの子も慕っていただけに今回初めて「人の死」ということに直面しました。
火葬場でじっと祖母の亡骸を見つめる子どもの目には明らかに困惑と動揺が感じ取れました。
初めて体感する人の死。
大人でも動揺してしまう人間の最期。
どんなことを感じて思っていたんでしょうか?
「いのちが消えたらどうなるのか?」
きっと子どもの小さな心に常に疑問となっている問題だと思います。
祖母の死を体験して以来、不安に感じた時、
「ママが死んでしまったらどうすればいいの?」
「もしママがいなくなったら・・・・」
と言うことが増えてきたように思います。
その不安な気持ちを受け止めて、少しでも解消してあげたい、前向きに生きてもらいたいと思います。
そして子どもが生きる力を養っていけるように母として色々なことを教えてあげたいと感じています。
でもこの世の中いつどこでどんな事故・災害に巻き込まれたり、病気になってしまうかもわかりませんよね?
子どもを残して先に逝ってしまうことなんて考えたくもありませんが、
もし万が一そうなった時に我が子が悲しみに打ちひしがれて生きる力を見失ってしまわないように、しっかりと母として「いのちの大切さ」について伝えておかなければと感じています。
「いのちが消える」ってどういうこと?
人が死ぬということについて、うちの子は祖母の死を経験して色々と思うところはあったようです。
ただそれが自分の中でまた消化しきれていない部分が多いから「いのちが消えること」を一番身近な「ママが死んだらどうしたらいいの?」と結びつけてしまい不安に感じてしまっているところもあるのかもしれません。
でもただ不安と恐怖感に捉えられているだけでは「いのちの大切さ」を学び取ることになりませんよね?
いのちとは、「みらい」のことです。「生まれる」とは「みらいがはじまる」ことで、「しぬ」とは「みらいがなくなること」を言います。じゅみょうとは、「いのちの長さ」のこと。生まれたときにあたえられる、「みらいの長さ」とも言えます。
いのちは「みらい」であること。
その「みらい」をなくさないために「いのちを大切にしないといけない」。
でも子どもに「いのちの大切さ」を伝えることって、とても難しいなと思いました・・・。
年齢が上がるにつれて綺麗ごとでは済まされないことも出てくるし。
「いのち」ってなんだろう?
そもそも人のいのちは一体なんなのでしょう?
子どもはどのような捉え方をしているのか気になりました。
うちの子に「いのちってなんだろうね?」と問いかけてみました。
そしたら「う~ん、たぶんドクドクと音がするしんぞう(心臓)のことかなー?」と答えました。
心臓が止まるといのちが止まるということは知識として知っているみたいです。
でも「いのち」って医学的には心臓ではありますが、それが答えだというのもなんだか現実的であり、寂しい気もします。
「いのち」にはもっともっと深い意味があるように思えてならないのです。
もっと子どもの目線で共感出来るしっかりとした答えがないものでしょうか?
調べてみたらこんな答えがありました。
医学博士である日野原重明先生が小学校で授業をした時の言葉です。
「では命はどこにあるの」って質問すると
心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。
僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって
このように話を続けるんです。「心臓は確かに大切な臓器だけれども
これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。
命とは感じるもので、目には見えないんだ。
君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。
空気見えるの?酸素は?風が見えるの?
でもその空気があるから僕たちは生きている。
このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。それから僕が言うのは
「命はなぜ目に見えないか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。
さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために
使うことを学んでほしい」ということです。
この答えにかなり共感を覚えました。
子どもにもわかりやすく建設的な答えであると思います。
「いのちは君たちが持っている時間だから目に見えない」
そしてその時間・いのちは一度きりのものだから考えて生きていこう。
「本当に大切なものは目には見えない」って本当ですね。
いのち・時間・空気・酸素・風。いのちも時間も目に見えないし、大切にすべきものであり、自分の考えで生き方が変わるんですから・・・。
私自身がこの答えを見つけて「いのち」ってすごいなとあらためて思いました。
もちろん子どもにも話してみました。
「そっか、いのちは自分の持っている時間なんだ。だから生きるってドキドキするしワクワクしたり悲しかったり寂しかったりするんだね。」
と笑顔で答えてくれました。
いのちは時間であり、自分で紡ぐもの
しんだ人はぜったいによみがえりません。人だけなく、生きるものはすべて、しんだら生きかえることはないのです。でもしんだ人の心は、よみがえることがあります。
今回祖母の死を通して子どもと「いのち」について話し合う機会を得ることができました。
ただ「いのち」がなくなることだけではなく、「いのち」がなくなったあとも「死んだ人のこころ」は「残された人のこころ」に生きているということはしっかりと話してあげたいと思います。
もし母である私が突然亡くなってしまったら、子どもは悲しみに明け暮れると思うから。
そして、こんなふうに伝えてみようと思います。
日野原重明先生の授業を受けた10歳の小学生がこんな手紙を先生に送っていたそうです。
僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。
そこには「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが私たちの仕事ですね」と書かれていた。
十歳の子どもというのは、もう大人なんですよ。
あらゆることをピーンと感じる感性を持っているんです。
とても躍動感溢れる捉え方をしていて、素敵な答えだなと思います。
子どもも色んなことを受け止めて噛み締めて
自分なりに答えを出してくれるものなのかもしれませんね。
ただそれを導いてあげるのは周囲の大人たちの仕事であると感じています。
「いのち」についてはどんな答えがベストアンサーなのかはっきりわかりません。
なので今回の答えもまだまだ不十分であると思います。
これから色んな困難が待ち受けているであろう子どもの未来のために、自分で生きる力を切り開くためにどんどん「いのち」について話し合う機会を持ちたいと思いました。
皆さんはお子さんと「いのち」について話し合ったことがありますか?
きっとそれぞれのお子さんの目線で色んな答えがあるのかもしれませんね。
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@hatara_sodaさんをフォローいのちの大切さを伝えることは難しいですね。
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